大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

新潟地方裁判所長岡支部 昭和50年(ワ)186号 判決 1988年6月15日

原告

大井正則

長谷川昭一

右両名訴訟代理人弁護士

栃倉光

他二三九名

被告

室町産業株式会社

右代表者代表取締役

風祭康彦

右訴訟代理人弁護士

金田善尚

他一〇名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  原告大井正則(以下「原告大井」という。)と被告との間で、昭和三九年夏頃になされた契約に基づき、被告が別紙第一物件目録記載の(一)及び(二)の各土地(これらの土地は、旧河川法施行規程第九条で定められていた土地で、以下「九条地の一」といい、また、右規程第九条の適用される土地を単に「九条地」ともいう。)の所有権を取得したときは、原告大井が被告に右各土地を引渡す旨の債務は存在しないことを確認する。

2  被告は、原告大井に対し、別紙第一物件目録記載の(三)ないし(七)の各土地(以下「原告大井所有地」という。)について、新潟地方法務局長岡支局昭和四〇年三月一九日受付第四四五〇号の条件付所有権移転仮登記の抹消登記手続をせよ。

3  被告は、原告大井に対し、原告大井所有地について、新潟地方法務局長岡支局昭和四〇年三月一九日受付第四四五一号の抵当権設定登記の抹消登記手続をせよ。

4  訴外亡長谷川清四郎(以下「亡清四郎」という。)と被告との間で、昭和三九年夏頃になされた契約に基づき、被告が別紙第二物件目録記載の(一)の土地(以下「九条地の二」という。)の所有権を取得したときは、原告長谷川昭一(以下「原告長谷川」という。)が被告に右土地を引渡す旨の債務は存在しないことを確認する。

5  被告は、原告長谷川に対し、別紙第二物件目録記載の(二)の土地(以下「原告長谷川所有地」という。)について、新潟地方法務局長岡支局昭和三九年一〇月二〇日受付第一四七二五号の条件付所有権移転仮登記の抹消登記手続をせよ。

6  被告は、原告長谷川に対し、原告長谷川所有地について、新潟地方法務局長岡支局昭和三九年一〇月二〇日受付第一四七二六号の抵当権設定登記の抹消登記手続をせよ。

7  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  (本案前の答弁)

請求の趣旨第1項及び第4項の訴をそれぞれ却下する。

2  (本案の答弁)

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告大井は九条地の一を、亡清四郎は九条地の二(死亡後は相続人である原告長谷川において)を、それぞれ慣習法上の河川敷耕作権(予備的に永小作権もしくは賃借権を主張する。)に基いて耕作しているが、被告は、原告大井に対し、請求の趣旨1記載の引渡請求権を、原告長谷川に対し、同4記載の引渡請求権をそれぞれ有していると主張している。

2(一)  原告大井は、原告大井所有地を所有している。

(二)  被告は、原告大井所有地について新潟地方法務局長岡支局昭和四〇年三月一九日受付第四四五〇号の条件付所有権移転仮登記を、同支局同日受付第四四五一号の抵当権設定登記をそれぞれ経由している。

3(一)  亡清四郎は、原告長谷川所有地を所有していたが、昭和四四年一一月一六日死亡し、原告長谷川が相続した。

(二)  被告は、原告長谷川所有地について、新潟地方法務局長岡支局昭和三九年一〇月二〇日受付第一四七二五号の条件付所有権移転仮登記を、同支局同日受付第一四七二六号の抵当権設定登記をそれぞれ経由している。

4  よつて、原告大井は被告に対し、(1)原告大井と被告との間で請求の趣旨1記載の債務が存在しないことの確認を、(2)所有権に基づき、条件付所有権移転仮登記及び抵当権設定登記の各抹消登記手続をそれぞれ求め、原告長谷川は被告に対し、(3)原告長谷川と被告との間で、請求の趣旨4記載の債務が存在しないことの確認を、(4)所有権に基づき、条件付所有権移転仮登記及び抵当権設定登記の各抹消登記手続をそれぞれ求める。

二  被告の本案前の主張

被告は、昭和三九年頃九条地の所有者らと、同条地が旧河川法第四四条但書の規定により廃川敷となり、旧所有者らに下付されたときは、旧所有者らは被告に売渡す旨の売買契約を締結した。

被告は、同年頃右契約に基づき、原告らとの間で九条地の一及び二が旧所有者らに下付され、被告が同土地を買受けたときは、耕作者である原告らは同土地を被告に引渡す旨の契約を締結した。

昭和四〇年四月一日現行河川法が施行され、前記各土地は、同施行法四条により国有地となり、昭和四九年四月頃河川管理者である建設大臣が占有管理する土地となり、建設大臣は昭和五二年一一月一日廃川敷処分の告示をなし、河川法施行法一八条及び旧河川法第四四条但書の規定に基づき、昭和五三年六月一日下付申請した九条地の一及び二の所有者らにそれぞれ廃川敷地を下付し、同月二三日引渡した。

被告は、前記契約に基づき、九条地の一及び二の旧所有者らの相続人から右各土地の所有権移転を受け、その旨登記し、同月二三日右各土地の占有を始めた。

なお、原告らは、被告との前記引渡契約及び昭和四九年四月に締結した離作契約に基づいて二度にわたり離作料を受領し、同年同月までには九条地の一及び二の各土地の耕作をその意思に基づいて止め、または、耕作権を放棄した。

以上によれば、原告らは、昭和四九年四月からは九条地の一及び二の各土地の占有を止め、そして、被告は昭和五三年六月二三日右各土地の引渡しを受け占有を開始したのであるから、原告らが被告に対して負担した右各土地の引渡し債務は履行により消滅したものであり、従つて原告らの被告に対する引渡債務不存在確認の訴は確認の利益がない。

三  請求原因に対する認否

請求原因事実1のうち耕作権を有するとの主張を争い、1のうちその余及び2、3の各事実はいずれも認める。

四  抗弁

1  (請求原因事実1に対し)

(一) 原告大井は、昭和三九年五月、被告との間で次の契約(以下、後記(二)の契約も含め、「本件停止条件付引渡契約」という。)を締結した。

(1) 原告大井が耕作している九条地の一の土地が、旧河川法第四四条但書の規定により、廃川敷処分となり、旧所有者に下付され、旧所有者から被告が右所有権を取得したときは、原告大井は直ちにその使用を取止め、被告に引渡す。

(2) 被告は、原告大井が右義務を負担したことに対する対価として、一六万八、一五〇円を支払う。

(二) 亡清四郎は、昭和三九年五月、被告と次の契約を締結した。

(1) 亡清四郎が耕作している九条地の二の土地が旧河川法第四四条但書の規定により、廃川敷処分となり、旧所有者に下付され、旧所有者から被告が右所有権を取得したときは、亡清四郎は直ちにその使用を取止め、被告に引渡す。

(2) 被告は、亡清四郎が右義務を負担したことに対する対価として、三万九、九〇〇円を支払う。

2  (請求原因事実2に対し)

(一) 被告は、昭和三九年九月五日原告大井との間で次の契約(以下、後述の3の契約も含め「本件売買契約」という。)を締結した。

(1) 原告大井は、同原告所有地のうち別紙第一物件目録記載の(三)ないし(六)の各土地を代金合計一〇万九、〇〇〇円で、同目録記載の(七)の土地を代金一四万一、〇〇〇円で、それぞれ農地法第五条の許可を条件に被告に売渡す。

(2) 右土地について売買を原因とする停止条件付所有権移転仮登記を設定する。

(3) 農地法の許可が受けられず、契約が効力を失つた時、又は原告大井が右契約に違反したときは契約を解除することとし、これによつて将来発生する返還金債務の担保として、右各土地に債権額七万円の抵当権設定の登記をする。

(二) 被告は、右契約に基づき、請求原因2・(二)記載の各登記を経由した。

3  (請求原因事実3に対し)

(一) 被告は、昭和三九年九月五日亡清四郎との間で、次の契約を締結した。

(1) 亡清四郎は、原告長谷川所有地を代金一万八、五〇〇円で農地法第五条の許可を条件に被告に売渡す。

(2) 右土地について、売買を原因とする停止条件付所有権移転仮登記を設定する。

(3) 農地法の許可が受けられず、契約が効力を失つた時、又は亡清四郎が右契約に違反した時は契約を解除することとし、これによつて将来発生する返還債務の担保として、右土地上に債権額二、六〇〇円の抵当権設定の登記をする。

(二) 被告は、右契約に基づき、請求原因3・(二)記載の各登記を経由した。

五  抗弁に対する認否

抗弁事実は全部認める(但し本件停止条件付引渡契約が締結されたのは昭和三九年夏頃である。)。

六  再抗弁

1  (公序良俗に反する無効な契約)

原告ら所有地のあつた信濃川河川敷の買占めは、当時大蔵大臣であつた田中角栄(以下「田中」という。)が、その政治的地位を利用し、暴利を得んがために、ダミー会社である被告を使い、原告らを含む農民と詐欺的に売買契約を締結したものであり、本件停止条件付引渡契約及び売買契約(以下「本件各契約」という。)は、公序良俗に反する無効な契約である。

(一) (被告と田中との関係)

被告は、昭和三七年一二月一七日に貸室、貸家、不動産の売買及び斡旋、土地造成などを目的として設立され、代表取締役には田中の秘書で、その政治団体である越山会の会計責任者であつた佐藤昭が就任した。昭和三八年四月一五日以降は、田中の友人の入内島金一、田中の腹心の関藤栄が代表取締役になつており、また取締役には佐藤昭、戸田久らいわゆる田中ファミリーの構成員、榎本敏夫、早坂茂三ら田中の秘書グループ、庭山康徳、片岡甚松ら越後交通株式会社関係者ら(田中は、越後交通株式会社の筆頭株主である。)が就任している。

被告の資本金は、設立時には一、二五〇万円であつたが、昭和三八年八月三一日に五、〇〇〇万円、同年一一月九日に一億五、〇〇〇万円、同三九年六月二一日に二億五、〇〇〇万円、同四一年八月一六日に五億円、同四二年一月二九日に七億五、〇〇〇万円、同四九年二月二八日に一〇億円と増加している。そして昭和四九年二月二八日における被告の株主は、すべて田中と密接な関係を持つ者四〇名によつて構成されていた。

被告の本店は、設立時には東京都新宿区市谷左内町二二番地の被告名義のビルの一室の佐藤昭宅におかれていたが、昭和三九年同区本塩町二三番地に移転した。しかし同所の田中ビルの一室にある高梨建設設計事務所に看板を掲げたのみで、被告の従業員は一名もいなかつた。

被告は実体のない会社であり、田中が本件各土地を含む河川敷を買い占める目的で設立したものである。田中自身も「自分の関係していた日本電建の関係者を中心とする被告会社を新しく設立して本件河川敷を買つた。」旨述べている。

以上のとおり被告の役員は田中ファミリーの構成員らで占められ、株主も田中ファミリーや田中の関連企業から成り立つていて田中と被告は一体関係にあり、田中は被告を自由に操作し、支配していたものである。このことは、昭和五〇年九月二六日、当時の長岡市長小林孝平が、田中や被告会社代表取締役入内島と田中邸で会談して本件河川敷地の一部を長岡市へ提供する旨確認し合つたことからも明らかである。

(二) (政治家としての地位利用)

(1) 原告ら所有地を含む一帯の土地は、長岡市を流れる信濃川左岸(下流に向つて)の長生橋を蔵王橋の間にある約七三万平方メートルの河川敷(以下「本件河川敷」という。)であり、原告らは右河川敷の中にある土地を耕作していた。

しかし、本件河川敷は、大雨の度毎に信濃川の氾濫により冠水し、その都度農民らは耕作をやり直さなければならなかつた。また農民らは恙虫病と闘いながら耕作を続けていた。農民らは右のような大水による被害の危険等を避け、安全な耕作ができるようにするため、本件河川敷を堤内地とする堤防送り出し建設を望んでいた。

昭和三三年春頃、農民らは当時郵政大臣に就任していた田中に対し、本件河川敷内の堤防送り出し建設の陳情をなしたが、その実現は困難視された。農民らは、その後も田中に対し陳情を続けた。そして、昭和三六年に至り農民らは、田中から、地元民、土地関係者全員が本件河川敷内の土地売却に承知であるならばなんとかする旨提案されるに至つた。そこで、その意を受けた農民の主立衆は、昭和三七年三月までに「長生橋下流の信濃川左岸堤防送り出し工事の促進による関係地域の総合開発実現運動に全面的に同意し、これがため関係各農民は、信濃川河川敷を前述した価格で売却することを承諾した。」旨の書面(以下「承諾書」という。)を作成して関係各農民から右書面に捺印をもらい、田中に渡した。

(2) 田中は、当初、農民らの陳情に対し積極的な対応を示さなかつたが、昭和三六年に自民党水資源開発特別委員長、同年六月に同党政調会長に就任したころから、積極的に対応するようになつた。その後、昭和三七年七月田中は大蔵大臣に就任したが、この地位は、財政面から国のあらゆる行政計画及びその執行に関与し、かつこれに大きな影響力を及ぼしうる強大な権限を持つ地位である。田中はこれら国政の中枢にある地位を利用して、次に述べる築堤計画等を知るに至り、その結果、本件河川敷を買占めようと、昭和三六年ころから積極的に動き出したのである。

(3)(イ) 建設省は、昭和二八年に策定した「信濃川改修総体計画」について見直しを行い、蓮潟地区の築堤計画については、霞堤とするか、本堤とするかについて問題が生じていたが、昭和三七年二月には建設省北陸地方建設局(以下「北陸地建」という。)と長岡工事事務所との打合せで、霞堤とすることは意味がなく、本堤とする旨の合意がなされ、新堤着工も近々に迫つていた。そして、昭和四〇年九月に築堤着工に至つた。

(ロ) 昭和三六年八月長岡市神田町三丁目から同市川崎町字川崎までの「昭和通り川崎線」の都市計画街路の路線決定がなされていたが、昭和三八年、建設省は、国道八号線が、長生橋を経て長岡市街地を通過しているのを、同市内の交通渋滞を緩和するため、長生橋と蔵王橋の中間付近、即ち、本件河川敷内を通り、長岡市街地へ至る第三の大橋(現在の長岡大橋、以下「長岡大橋」という。)の建設を含むバイパスを計画し、同年実施測量調査を開始し、昭和四一年国道八号線バイパスについて、地元と建設省との間で協議がなされ、昭和四二年六月に前に計画された通りのルートが発表され、同年一〇月一日長岡大橋の着工となつた。

右計画により、本件河川敷内の土地は交通の要衡地となり、また長岡市の中心的部分に含まれることとなつた。

(ハ) 昭和三七年九月から河川法改正事業が始められ、昭和三九年六月二五日改正法が成立し、昭和三〇年四月一日から施行されることとなつた。

本件に関し、右改正法の重要な改正点は次のとおりである。

(a) 旧法では、河川は都道府県知事が管理し(旧河川法第六条)、廃川敷とする処分も知事が建設大臣の認可を受けてこれをなし(旧廃川敷地処分令二条、三条)、廃川敷地は知事が私人に下付するもの及び国有地に編入する必要のあるものを除いて、都道府県に帰属することとなつていた(同令七条)。

改正法では、信濃川のような一級河川は、原則として建設大臣が管理することとなり(新河川法九条)、廃川敷処分も建設大臣がなし、その廃川敷地となつた国有地も都道府県に帰属するのではなく、一定の管理期間(同法九一条)の後は、普通国有財産として、大蔵大臣の管理・処分権限下に入る(国有財産法六条)こととなつた。

右のように、河川に関する権限は、廃川敷処分に関する権限も含めて都道府県知事から大幅に国に移管されることとなり、廃川敷地も大蔵大臣の管理処分権限下に入ることとなつたのである。

(b) 旧河川法では、河川敷地内の土地は、私権の目的とすることが禁じられていたが(旧河川法第三条)、改正法では、河川区域内でも私権の設定、移転が認められることとなつた。その結果、本件河川敷地内に混入している民有地について、容易に買収し、国に収用されないこととなつた。

(c) 九条地たる国有地について、旧河川法第四四条但書は、廃川敷とされた土地について、地方行政庁は「但し、この法律施行前私人の所有権を認めたる証跡あるときは、その私人に下付すべし」としていたが、これが改正法によつてどうなるかが問題とされたが、河川法施行法一八条により、右旧規定はひき続き効力を有することが確認され、国が旧所有者たる私人に下付することとなつた。

(d) 純国有地についても、旧法下では廃川敷地が都道府県に帰属するものとされていたが、改正法では、一定の管理期間経過後は、大蔵大臣が普通国有財産として、直接管理処分するものとされた。しかも、昭和三九年、国有財産法二九条但書にもとづいて出された政令二二五号の国有財産法施行令一六条の二第五号、第六号及び会計法二九条の三第五項、予算決算及び会計令九九条第二二号等により、右財産は「特別の縁故がある者」に払下げができることとされた。

(4) 右のように、築堤がなされ、長岡大橋が架橋され、河川法改正により本件河川敷が廃川敷処分になれば、本件河川敷は一等地に生れかわり、土地の価値が急騰することは明らかである。田中は前記のとおり国政の中枢の地位にあり、築堤計画、長岡大橋及びバイパスの計画、河川法改正の内容等を容易に知りうる立場にあつた。田中は右状況を踏えて、昭和三六年に本件河川敷の買占めを決意し、農民らに対し、本件河川敷売却の方向へと進ませたのである。そして、昭和三七年四月に、堤防工事を管轄する建設省長岡工事事務所所長松野時雄、長岡市助役庭山康徳を田中が当時代表取締役をしていた日本電建株式会社に入社させ、これによつて、田中は堤防送り出し工事等の内容をつぶさに知ることができた。

(5) 他方、農民らは、築堤計画や長岡大橋の架橋及びバイパス計画等が具体化されることを知るすべもなく、また、その情報を知り得る立場にあつた田中から右計画等が具体的に進行していることについて一言の説明も受けておらず、田中の権力を背景とする地元の主立衆による売却への説得と圧迫の中でやむなく土地売却の承諾をしたのである。

(6) そして、田中は昭和三七年七月大蔵大臣に就任し、大臣として堤防送り出し工事が昭和四〇年に着工されること、それに伴い長岡大橋の架橋工事も始まること、河川法改正により本件河川敷の管理形態が変更すること等を熟知し、その情報を自己の利益を図るために利用し、これを原告らを含む農民らに告げることなく、被告を隠れみのとして、農民らと本件河川敷売買契約を締結した。

(7) 以上のように、田中は、前記(2)のとおり、本件河川敷を買占めた当時、国会議員であると同時に大蔵大臣の地位にあつた。国会議員は、主権者たる国民の意に従い、国民のために政治権力を行使しなければならず、また大蔵大臣は特別職国家公務員として、全体の奉仕者として誠実に職務に専念し、職務上の秘密を遵守すべき義務があり、営利会社の社長または役員となることが禁止され、直接・間接を問わず商業を営むことが禁止されると規定している官吏職務規律に服すべき義務がある。さらに、大蔵大臣は固有財産の総轄権限(国有財産法七条)があるが、国有財産法は国有財産に関する事務に従事する職員が国家の機関として国有財産を管理しながら、その財産の処分の相手方となることを禁止(同法一六条)している。

しかるに、田中は本件河川敷買占めにおいて、前記義務に違反し、国会議員として、また大蔵大臣として知ることのできた国政上の情報を利用し、また築堤予算を自らの手で策定するなど国政に影響力を行使しながら、被告をして本件河川敷を買占めさせたもので、右のような政治的地位利用行為による売買契約は公序良俗に反すると言わなければならない。

(8)(イ) 前記のとおり、田中と被告は一体関係にあり、被告の業務は、田中が自ら営業を営むものと判断されるのであるから、法人格否認の法理を適用して被告の法人格は否認され、本件河川敷の売買契約は田中と原告らを含む農民との契約とみるべきである。

従つて原告大井及び亡清四郎と被告の契約も公序良俗に反して無効である。

(ロ) 被告は、田中が実質的に支配する会社である。田中は、自己の政治的地位を利用して知り得た情報を秘し、被告をして本件河川敷を買収せしめ、被告への支配力を通じて本件河川敷を実質的に保有し、暴利を得ようとしたものである。

田中は、被告への支配力により、自己の政治的地位を利用して暴利を得ようとしたものであるから、原告大井及び亡清四郎と被告との契約は公序良俗に反して無効である。

(ハ) また田中は、自己の政治的地位を利用して知り得た情報を被告会社代表取締役入内島金一らに提供して、本件河川敷を買収せしめ、被告に暴利を得させようとした。

斯る場合、田中が自己の政治的地位を利用して「第三者」である被告に不当に利得せしめようとする場合に該当するから、原告大井及び亡清四郎と被告との契約は公序良俗に反して無効である。

(三) (暴利行為)

(1) 本件河川敷の売買契約締結当時、築堤工事等が始まることが公知の事実となつていたならば、民有地が坪五〇〇円でありうる筈はなかつた。

本件売買契約が農地法第五条による転用許可を停止条件とするものであつた事実から、右売買は宅地への転用を目的・条件として行われたものと考えるべきで、土地価格の評価もそれを前提として算出されるべきは当然である。

そこで、右を前提として本件河川敷の民有地の価格を算出すると、売買契約締結時である昭和三九年七月時点では坪四、九一〇円、新堤及び長岡大橋完成後の昭和四六年一月時点では坪三万二、四一九円、廃川敷処分時点では坪七万二、二四三円、昭和五九年一二月時点では坪一三万四、九八九円となる。これらを、本件売買契約締結時の坪五〇〇円と比較すると、契約時で9.82倍、昭和四六年時には64.8倍、昭和五二年時には144.4倍、昭和五九年時には二七〇倍にもなり、きわめて暴利性の高いことが明白である。

従つて、本件売買契約が締結される当時、築堤等の情報が公知の事実となつておれば、少くとも坪万単位の時価となつていたことは明らかである。事実、本件河川敷の近隣の土地である長岡市大島新町二丁目甲一、二九三が昭和三九年に坪一万円で取引されており、また、現在、本件河川敷付近の土地の実勢価格は坪二〇万円を下ることがない。

田中は現在本件河川敷約一二万坪を保有しているが、これの時価は控え目にみても一六〇億円、実際上は二四〇億円を超えるという桁はずれのもので、売買当時の一二万坪の代金は六、〇〇〇万円であつたことを考えると、ただ同然で土地を掠めとつたのと同じである。

(2) ところで、暴利行為か否かの判断は原則として契約締結時であるが、停止条件付売買契約においては、条件成就時の価格を念頭に取引されるから、条件成就時を暴利か否かの判断基準に置くべきである。これを本件についてみると、前記のように、本件河川敷の土地価格は、契約時において9.92倍、条件成就時には一四六倍となつており、本件売買契約は契約締結時においても、条件成就時においても暴利行為であることは明らかで、公序良俗に反する。

(3)(イ) 以上のとおり、田中は政治的地位を利用し、原告らの窮迫、軽率もしくは無経験に乗じて桁はずれの暴利を貪つたもので、田中と被告は、一体関係ないしは支配関係にあるから、被告が原告大井及び亡清四郎との間でなした本件売買契約は公序良俗に反し無効である。

(ロ) 暴利を得たのが被告であつても、被告の代表取締役入内島や関係者らは田中から、政治的地位を利用して知り得た情報の提供を受けて、何も知らない原告大井及び亡清四郎と本件売買契約を締結して、暴利を得たのであるから、右契約は公序良俗に反し無効である。

2  (詐欺による取消し)

(一) 前記(1・(二)・(3))のとおり、昭和三七年二月には北陸地建と長岡工事事務所との間で、霞堤でない本堤防の建設が合意されており、昭和三九年には昭和四〇年度築堤予算請求案が策定される段階に至つており、昭和三八年に建設省が長岡大橋の建設を含むバイパス計画を立て、実地測量を開始し、昭和三七年九月から河川法改正事業が始められたのであるが、田中はその政治的地位から堤防送り出し工事が昭和四〇年に着工され、それに伴なつて近い将来長岡大橋が建設され、バイパス道路もつくられることを熟知し、また築堤の結果廃川敷処分がなされ、廃川敷となつた場合、民有地は河川法の規制を免れ、九条地は旧所有者に下付され、耕作者も耕作権限を公認され、純国有地も払下げを受けられるようになり、本件河川敷が一等地に生れ変り、価値も急騰することが明らかとなることを当然予測していた。また被告代理人として本件各契約を担当した片岡甚松、庭山康徳、風祭康彦、笠井伊忠次、松木明正らも、田中から右築堤計画などの事実を知らされ、本件河川敷の価値急騰を予測していた。

田中は、原告ら農民から長年築堤の実現方の陳情を受け、実現のために努力する旨表明して来たのであるから、築堤が可能になつた段階でそれを説明する道義的、政治的義務があり、また田中は、自ら知り得た情報を利用して自己または第三者の利益を図ることは許されないから、農民の土地を自ら買受け、あるいは自己の事実上支配する会社に買取らせる場合には、原告ら農民に築堤計画の内容、実現の見通しを説明すべきであつた。

従つて田中及び被告関係者らは、築堤計画とその見通しについて原告ら農民に説明すべき信義則上の義務があつた。

しかるに被告代理人片岡甚松、庭山康徳、風祭康彦、笠井伊忠次、松木明正は、右事実を農民に告知しなければならないのに、敢えて秘し、これらのことを原告大井及び亡清四郎に告げることなく、しかも同人らに対し、「どうせ三年に一回は水につかる土地ではないか。」、「河川敷だから国から寄こせと言われれば返さなければならない土地だ。」、「国に堤防をつくつてくれといつてもまだ何年先のことかわからない。」等と述べて、同原告らを欺き、その旨誤信させ、或いは、同原告らが築堤など近い将来ないものと誤信している状態を利用して、前記四(抗弁)記載の各契約を成立させた。

(二) 原告らは、被告に対し、本訴状をもつて本件売買契約を取消す旨の意思表示をした。

3  (錯誤による無効)

(一) 原告大井及び亡清四郎は、前記四(抗弁)記載の売買契約時、前記1で述べたとおり、近々新堤防ができ、長岡大橋が新設され、バイパス道路も作られ、廃川敷処分がなされて廃川敷となつた場合は、民有地は河川法の規制を免れ、九条地は旧所有者に下付され、耕作者も耕作権限が公認され、その結果本件河川敷は一等地に生れ変る計画があつたにもかかわらず、その計画等はないものと誤信していた。

(二) 原告大井及び亡清四郎は、右契約に際し、被告から右計画等はなく、本件河川敷は三年に一回水のつかる土地とか堤防の送り出しはいつになるかわからない等と言われたため、原告ら所有地を被告に売渡したのである。

4  (国有財産法一六条に反する無効な契約)

大蔵大臣は、普通財産の管理処分の権限を、また、全ての国有財産の総轄権限も有しており、各省庁所管に係る財産管理について最終的総轄機関である。従つて、大蔵大臣は、総轄者として国有財産法一六条の「事務に従事する職員」とみなされ、国有財産の譲受けを一切禁止される。

九条地は公共用物として国の管理下、即ち、建設大臣の管理下にあるが、廃川敷処分によつて当然旧所有者に下付される。田中は九条地の旧所有者が廃川敷処分の際下付を受ける権限を有していることに着目し、自己の支配するダミー会社である被告を利用して、旧所有者から廃川敷処分を停止条件とする所有権移転の契約を締結し、さらに右九条地を耕作していた原告らと停止条件付引渡契約を締結した。

廃川敷処分、下付がなされてから旧所有者と契約をするのならともかく、右処分がなされる前に予め所有権移転の契約をなしておくことは実質的に国から九条地の所有権を譲受けることと何ら異ならず、国有財産法一六条が禁止する国有財産の譲受け行為に該当する。従つて、被告と旧所有者間の停止条件付売買契約は無効であり、この契約を前提とする被告と原告大井及び亡清四郎間の本件停止条件付引渡契約も無効である。

七  再抗弁に対する認否

1  再抗弁1のうち冒頭の事実は否認する。同1の(一)のうち、被告の設立日時、目的、資本金、代表者、所在地については認めるが、その余は否認する。同(二)・(1)のうち、本件河川敷の所在、原告らが耕作していた事実、氾濫の事実、農民らが昭和三三年春ころ田中に堤防送り出しを陳情した事実、承諾書を作成し農民らから捺印を貰つた事実は認めるが、その余は知らない。同(二)・(2)のうち、田中の地位、職務権限は認めるが、その余は否認する。同(二)・(3)の(イ)・(ロ)は知らない。(ハ)のうち河川法改正経過は認めるが、その余は知らない。同(二)の(4)・(5)・(6)は否認する。(7)のうち、田中の地位、国会議員、大蔵大臣の権限は認めるが、その余は否認する。(8)は争う。同(三)は争う。

2  同2ないし4は争う。

八  被告の反論

1(一)  被告が本件河川敷を買受けるに至つた経過

(1) 長岡市は川幅九〇〇から一、二〇〇メートルに及ぶ信濃川に東西を二分されており、かつては国道八号線の長生橋と約四キロメートル下流の県道長岡・与板線の蔵王橋の二橋で東西が結ばれていた。右二橋にはさまれた信濃川左岸は現在上川西地区と呼ばれているが、この地区において信濃川の川幅は中央部分が一、六〇〇メートルにもなつており、堤防は極端にへこんだ型となつていた。この地域が本件河川敷を含む信濃川河川敷とされるところである。

(2) 上川西地区農民は、信濃川河川敷を冠水や恙虫等の悪条件と闘い、開懇、耕作していたが、このへこんだ堤防を送り出し、堤内地とし、自然の脅威から耕地を守るための堤防送り出しの運動を展開するに至つた。

この堤防送り出し運動が最初に開始されたのは、昭和六、七年ころであつたが、当時の内務省の手により長生橋から蔵王橋に至る地区の本堤工事も直線の工事ではなく、地区農民らが自費で築いた湾曲した堤防を単にかさ上げするだけの工事であつた(以下、これを「旧堤」という。)。当時の地区農民らは右岸とほぼ平行になるような直線の堤防を築くよう国に陳情したが、予算上、地元に多額の負担金を要請されるなどして、断念せざるをえなかつた。しかし、地区農民の堤防送り出しの要望は強く、昭和六年ころ上川西村を中心に下川西村、福戸村、脇野町、与板町、長岡市が加わり、「信濃川堤防送り出し期成同盟会」(以上「期成同盟会」という。)が結成され、更に、これに加えて長生橋と蔵王橋の中間に架橋をとの運動も組込まれた。しかし、格別目立つた動きはなかつた。

(3) 戦後になつて、昭和二四年から上川西地区に耕地整理事業が開始され、これが進むにつれて関係農民の間に堤防を送り出して信濃川河川敷を有効に利用したいという気運が強く盛り上り、これをきつかけにして、旧上川西村長の経験を有する寺島部落の丸山九郎が堤防送り出し運動をすべく上川西地区の有力者に呼びかけ、同部落の星野九一郎、蓮潟部落の大井栄三郎、南藤太郎、松木明正が発起人となり、昭和三〇年ころには期成同盟会を上川西地区だけで再編成し、昭和三三年ころには各部落で連絡会議を開き、上川西地区が大同団結をし、目的達成へと運動を展開していつた。

右五人の発起人は、それぞれの組織を通じ、関係各方面へ陳情を繰り返すとともに、特に地元選出の田中に対し、同人が郵政大臣に就任した昭和三三年春に長岡入りした際、(イ)信濃川堤防を送り出して欲しい、(ロ)長生橋と蔵王橋の中間にもう一つ橋をかけて欲しい、(ハ)堤防送り出し後の堤内地となる河川敷には土地の開懇・開発をする会社か、地元の発展に役立つ企業を持つて来て欲しいとの三点について陳情した。しかし、田中は、それらを実現することは困難であると言つた。

(4) その後、右五名の発起人は、陳情を繰り返すとともに、昭和三六年に関係各部落で説明会を開催し、その結果、期成同盟会の機関として堤防送り出し委員会を結成した。この委員会で五名の発起人が代表委員となり、運動の進め方、堤防送り出しが実現された場合の堤内地となる信濃川河川敷の利用の仕方等につき度々会合を開き、協議、決定事項を各部落へ持ち帰り、それらを報告し、部落民の意見を聞き、土地利用については、(イ)土地を出し合い、出資して工場を建設する、(ロ)農業法人組織を作り、代表者に委任する、(ハ)売却して地元発展のために利用してもらう等の案が討議された。

(5) ところで、当初、前記五名の発起人をはじめ、各部落の農民も信濃川河川敷を売却する考えはなかつたが、昭和三三年に長生橋西詰の北側、小沢、古正寺部落に長岡市の工場誘致第一号である日産化学工業株式会社が天然ガスを利用して肥料等を生産するための工場進出を決定し、その結果土地を売却した農民に多額の現金が入り、また、工場に雇われる等、付近は著しく発展した。

しかも、長岡市の農村地帯において機械化が進むにつれ、昭和三五年ころから「金が欲しい」との気運も強まり、更に河川敷地内で生産される野菜類の収益にも限界があり、また前記工場誘致により土地を売却した農民に多額の現金が入つたことも手伝つて、関係各農民は本件河川敷を売却する方向へと考えを変えて行つた。

(6) その結果、前記委員会や各部落の集会において、堤防送り出し後に堤内地となる河川敷の土地利用については、土地売却への方向が固まり、昭和三六年前半には、右委員会は勿論、関係各農民も土地売却へとほぼ意思統一がはかられた。そして、その後の討議では、売却地の範囲及び売却価格の二点に絞られることとなつた。

(7) 売却の対象となる範囲は、新堤防の位置によつて決まるため、委員会、関係各農民とも新堤防の法線をどのようにするかについて重大な利害と関心をもち、種々討論を重ねた結果、昭和三七年二月ころの委員会で新堤防の法線は右岸とほぼ平行になるように直線を引けば、大体右岸より九〇〇メートルの地点であろうとの結論に達した。そして関係各農民も右想定法線を承認し、その結果、売却地を旧堤と右岸より九〇〇メートルの線で囲まれた範囲とすることに一応決定した。

(8) 売却価格については、次のような委員会案が作成され、了解された。

(イ) 民地 耕作地 反当一五万円

不毛地 反当

七万五、〇〇〇円

(ロ) 九条地 耕作地 〃

七万五、〇〇〇円

不毛地 〃 三万円

河川敷 〃

一万五、〇〇〇円

そして、委員は右各価格を関係各農民の一致した価格で買受けてくれる法人等を探すとともに、その斡旋を田中にも陳情した。その後も期成同盟会は繰り途し陳情を続けたが進展しないため、関係農民の一致した意思表示を文書化し、より積極的に陳情をしようということになつた。そして、委員会は昭和三七年三月「長生橋下流の信濃川左岸堤防送り出し工事の促進により関係地域の総合開発実現運動に全面的に同意し、これがため関係各農民は信濃川河川敷を前記価格で売却することを承諾した。」旨の承諾書を作成し、関係各農民から委任状をとりつけた。

(二)  被告と関係各農民との本件河川敷売買契約

(1) 被告は、昭和三八年ころ、田中から紹介をうけ、砂利採取等の目的で信濃川河川敷を買受けることを計画し、同年六月ころ農民の意向にそつて買受けることを決定した。売買交渉は当初関藤栄が被告を代理し、具体的売買契約等の事務手続段階に入り、同年七月末ころからは風祭康彦が被告を代理して売買契約締結の事務手続を遂行した。

(2) 右風祭と堤防送り出し委員会は農民側の意向を基本に協議を重ね、被告においては、信濃川河川敷のうち、右岸より九〇〇メートル地点付近までの更正図を作成し、これをもとに民地、九条地の登記簿を閲覧し、地番、地目、地積、所有者等の目録作成にかかり、委員会においては、同年一〇月末ころから九条地耕作地の実測を開始し、また、測量事務所に依頼して想定した新堤の位置である右岸より九〇〇メートルの地点に法線杭を打つてもらつて契約締結への作業を実施して行つた。

(3) ところで、農民らは被告に対し、(イ)民地所有者、九条地旧所有者との契約において価格算出は公簿面積に基づくとのことであつたが、これを実測面積に基づくものとし、増歩補償をして欲しい、(ロ)九条地は耕作地、不毛地、河川敷の三段階にわけ、それぞれ価格に差をつけていたが、このうち河川敷の区分を事実上廃し、不毛地と同じ価格で買取つて欲しい、(ハ)新堤防の位置を右岸から九〇〇メートルの地点と想定したが、この新堤の堤外地となる土地を耕作している者に対しても、耕作補償(反当一万五、〇〇〇円)して欲しいと要請し、被告は農民の右各要請を受け入れた。

(4) 以上の作業・交渉等を経て、昭和三八年九月から民地のうち地目が雑種地、原野の土地の売買契約を皮切りに、九条地契約、耕作補償、果樹補償とすすみ、昭和四一年八月の増歩補償を最後に、被告と関係各農民との信濃川河川敷の売買等の契約は終了した。なお、これらの契約は、物件目録作成、実測等が終了したところから、順次関係農民に公民館等に集合してもらい、委員会立合いのうえで各人に契約書に署名・押印をしてもらつたものである。

(三)  被告と原告大井及び亡清四郎との契約

(1) 原告大井及び亡清四郎は蓮潟部落に居住するものであるが、右両名は蓮潟公民館での集会の際に、大井栄三郎らから本件河川敷売買等についての趣旨説明を十分に受け、内容をよく理解し、納得したうえで、抗弁記載の各契約を被告と締結したものである。

(2) なお、被告と原告大井及び亡清四郎との間では、抗弁記載の各契約のほかにも、被告は原告大井に対し、昭和三九年七月一一日堤外地耕作補償一反六畝二二歩分として二万五、一〇〇円(反当一万五、〇〇〇円)を、亡清四郎に対し、同年七月堤外地耕作補償四反七畝二一歩分として七万一、五五〇円(反当一万五、〇〇〇円)をそれぞれ支払つている。

更に、原告らは、昭和四九年四月越後交通株式会社から、同社が被告から本件河川敷の一部を借り受けてゴルフ場建設を予定した際に、原告大井は同年四月二八日寺島町字見取二九三の四外一筆畑一、九七三平方メートルの離作補償として一一九万四、〇〇〇円の、原告長谷川は同日寺島町字新助四一八番外二筆一、七九五平方メートルの離作補償として一六八万六、〇〇〇円の支払いを受けている。

なお、昭和四五年一二月新堤防が完成したが、右新堤防の位置は、右岸から約一、一〇〇メートルの地点であつた。その結果、被告が原告ら農民から買取つた土地の範囲には、広範囲(約三三万平方メートル)な堤外地が含まれることとなつた。

(四)  以上のとおり、被告と原告らを含む関係農民との本件河川敷の売買契約は、堤防送り出しによつて、本件河川敷が堤内地となることを当事者双方が予期し、かつそれを前提として結ばれたものであり、従つて、原告ら主張のように右売買契約に詐欺、公序良俗違反、錯誤など入り込む余地はない。

2  国有財産法に関する反論

九条地は、河川敷の従前の所有者及びその承継人に対し、廃川敷処分後下付が国に義務づけられている土地である。廃川敷地を譲受ける契約は、右のように下付により私人が国から所有権を取得することを条件として、その私人から所有権を譲受ける行為であつて、国有地の国による処分行為ではない。従つて、国有財産法一六条の適用のないことは明らかである。まして、原告大井及び亡清四郎と被告間の契約は離作契約であつて、所有権の譲渡にも該らないもので、原告らの主張は失当である。

3  田中の政治的地位利用行為に対する反論

原告らの田中の政治的地位利用行為の主張は、田中の政治活動を意図的に攻撃し、かつその政治生命を葬り去ろうとする政治的意図のもとに利用せんとしているものである。

(一) 被告は、昭和三七年一二月一七日佐藤昭によりビルの管理業務を行う会社として設立され、その後右会社の株式が被告代表者の入内島金一に譲渡され、更に、現在は国際不動産株式会社外の法人と個人が株主であり、この間、田中が被告の株主となつたことはない。被告は本件河川敷を購入するために田中により設立された会社ではなく、資本構成においても事業活動においても、田中との一体性は認められない。

(二) 被告と原告大井及び亡清四郎を含む関係農民との本件河川敷をめぐる契約は、農民らにおいて近い将来堤防ができ、ひいては架橋もなされるということを予期し、かつそれを前提にして締結されたものであつて、田中が築堤・架橋計画を事前に知り、それらを隠して、被告に本件河川敷を買取らせたものではない。

(三) 河川法改正事業は、地方自治を重視する現憲法のもとでは、旧河川法のままでは河川行政が地方自治体毎に分断されるという弊害が生じたので、それを取除くためになされたものである。そして、改正により一級河川が建設大臣の管理とされるに至つたのも、「国土の保全を確保し、かつ水の高度利用を図るため、水系を一貫した河川の管理体系を確立し、水利調整その他水利使用に関する制度を整備し、洪水時に対処する防災上の措置を講ずる等の必要があるため」なされたものである。即ち、右法改正は、河川の重要性に応じて水流ごとに取扱いを異にするという考え方に基くもので、右改正が突如として現われたものではない。

4  暴利行為に関する反論

土地の価額は時の経過に従つて社会的、経済的及び行政的な諸条件の変化に応じて常に変化し、時には高騰することも稀ではないのであるから、契約後一〇年ないし二〇年後になつて、たとえ土地の騰貴があつたとしても、これをもつて当初の契約の効力を否定することは失当である。買受価額が不当であるかどうかはあくまで契約時をもつて判断すべきところ、原告ら所有地は堤外地にありながら、近隣堤内地とほぼ同価額で買受けており、不当に安いとは到底いえない。

また、原告らが引合いに出している土地は、右土地とは環境を著しく異にしているもので、そのままの価額で比較することはできない。

第三  証拠<省略>

理由

第一本案前の答弁に対する判断

一被告は、原告らは、被告と締結した本件停止条件付引渡契約及び昭和四九年四月二八日に越後交通株式会社と締結した離作契約に基づき、二度にわたり離作料を受領し、同年同月までには九条地の一及び二の土地の耕作をその意思に基づいて止め、または、耕作権を放棄し、他方、被告は、昭和五三年六月二三日、旧地主から右各土地の引渡しを受けて占有を開始しており、従つて、原告らの被告に対する右各土地の引渡債務は原告らの履行により消滅したので、引渡債務不存在の確認の利益はない旨主張する。

二<証拠>によれば、越後交通株式会社が被告から本件河川敷を借受け、ゴルフ場の建設を予定したことから、原告らは昭和四九年四月二八日越後交通株式会社と離作契約を締結することになり(但し、原告大井は(七)の土地外一筆について契約をし、九条地の一の土地については契約していない。)、それ以降原告らは九条地の耕作を止めたこと、九条の一及び二の土地は昭和五二年一一月一日廃川敷処分の告示がなされ、旧地主の下付申請により昭和五三年六月一日に下付され、同月二三日に引渡がなされたこと、被告は昭和五三年八月二一日九条地の一及び二の土地につき所有権保存登記を経由し、それ以降右各土地を占有していることを認めることができる。

右によれば、原告らは自らの意思に基づき、昭和四九年四月二八日以降九条地の一及び二の土地の耕作を止めたが、それは越後交通株式会社との離作契約に基づくものであつて、被告との本件停止条件付引渡契約に基づいてのものではないのである。従つて、原告らは被告に対し九条地の一及び二の土地を引渡したとはいえない。

また、被告は当初、原告らの引渡債務が存在しないとの主張を争つていたのであり、被告の主張は、一旦成立した債務が履行によつて消滅したというもので、他方原告らは、右債務は、存在しなかつたというのであるから、現在原告らが九条地の一及び二の土地を耕作していないこと、昭和五二年の廃川敷処分の告示により、右各土地が旧地主に下付され、昭和五三年八月以降被告が占有するに至つたということから直ちに、原告らの引渡債務不存在の確認の利益がなくなつたということはできない。

以上のことから、被告の主張は失当である。

第二本案に対する判断

一請求原因事実のうち原告らが九条地の一、二の耕作権を有していたとの点を除くその余の事実及び抗弁事実のうち停止条件付引渡契約の締結日を除くその余の事実はいずれも当事者間に争いがなく、<証拠>により右契約は昭和三九年五月に締結されたことが認められる。

二そこで再抗弁事実1(公序良俗違反)について判断する。

1  (田中と被告の関係について)

<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

(一) 被告は、昭和三七年一二月一七日、貸室、貸家、不動産の売買及び斡旋、土地造成、土木建築の設計施工請負、証券投資等を目的とし、資本金一、二五〇万円で設立された会社であり、設立当初の本店所在地は、東京都新宿区市谷左内町二二番地であつた。同所には、被告、佐藤昭、第三者の区分所有にかかる鉄筋コンクリート造陸屋根地下一階付地上四階建居宅のビルがあり、佐藤昭の住所もあつた。

(二) 被告の役員構成は、設立当初田中の後援団体である越山会の元会計責任者の佐藤昭が代表取締役に、戸田久、沢村喜三が取締役に、竹田正義が監査役にそれぞれ就任していた。しかし、佐藤は、昭和三八年四月一五日代表取締役を辞任し、同日日本電建株式会社の代表取締役入内島金一が佐藤から被告の株式全部を譲り受けて代表取締役に就任した。入内島は同年九月二日代表取締役を辞任し、同日、当時越後交通株式会社の取締役であつた関藤栄が代表取締役に就任したが、同人は、同年一一月九日辞任し、再び入内島が代表取締役に就任した。これは、被告が本件河川敷を買受けるにあたり、入内島が現地の事情に精通していた関に被告の代表取締役となつてもらつた方が事がうまく行くと考え、同人に代表取締役就任を依頼し、買受けの段取りが決まつたことから同人が辞任を申出たため短期間で代表取締役が交替したことによる。しかし、その後、同年一二月一七日に代表取締役の入内島、取締役の佐藤、戸田、沢村、関、足立篤郎、監査役の竹田が全員退任し、昭和三九年五月二〇日右退任した全員が全く同じ役職で被告の役員に就任した。右退任登記は昭和三九年五月二〇日であるが、退任の日である昭和三八年一二月一七日から就任の日である昭和三九年五月二〇日までの被告の役員は不明である。しかし、その間の昭和三九年一月二六日、被告の本店所在地が新宿区本塩町二三番地に移転し、その旨登記されている。その後、昭和四一年五月二五日に、田中の秘書である榎本敏夫、早坂茂三、田中利男がそれぞれ取締役に就任し、同年一〇月三日に榎本、早坂が取締役を辞任して、その代りに越後交通株式会社関係者の庭山康徳、片岡甚松が取締役に就任し、監査役に田中の義弟である風祭康彦が就任した。その後の役員は代表取締役が入内島、取締役が関、庭山、片岡ら、監査役が風祭(昭和五〇年九月以降取締役に就任)とほぼ固定し、昭和六〇年六月二七日風祭が代表取締役となつた。

(三) 被告の資本金は、入内島の代表取締役就任後逐次増額され、昭和三八年一一月一億五、〇〇〇万円、昭和三九年六月二億五、〇〇〇万円、昭和四一年八月五億円、昭和四二年一月七億五、〇〇〇万円、昭和四九年二月には一〇億円に達している。しかし株主構成については必ずしも明確ではない。入内島は代表取締役就任に際し、佐藤昭から全株式を取得したが、その後被告の増資に伴い、新潟交通株式会社、日本電建、新星企業株式会社等通常田中の関連会社といわれている法人や田中の知人等の個人が株主を構成するに至つている。ただ、田中自身被告の株主となつたことはない。

(四) 被告の営業活動は、主として本件河川敷の買受であつたが、その他不動産の売買、斡旋を行なつていた。

被告は、営業活動の根拠となる営業所を設けていたことはなく、専属の従業員が働いたこともない。本件河川敷の買収も、越後交通株式会社の関連企業の長鉄砂利株式会社の取締役をしていた風祭康彦が担当した。

被告の事務は、田中事務所の使用人が執つていたが、同人らは田中事務所で仕事をしていた。被告は、田中事務所の使用人らの給料等を会社の人件費から支払つていたことが判明し、昭和五八年国税局から摘発を受け、右人件費について田中への寄付金とする旨の更正処分を受けている。

(五) 被告は前記の通り、昭和三七年一二月に不動産の売買及び斡旋、土木建築の設計施工請負等を目的として設立されたが、不動産の売買及び斡旋等の業務遂行に必要な宅地建物取引業法の免許を取得したのは昭和四二年三月二〇日(右免許は東京都知事のものである)であり、その後、昭和四五年三月二一日に右免許更新がなく、失効している。

(六) なお、昭和四九年一一月八日開催の参議院決算委員会において、建設省計画局長は、議員の質問に対する答弁として、被告の所在地に電話をかけたが誰も出ず、被告の実体については調査段階であるが、会社自身としては法人として存在する旨述べている。

(七) 昭和五〇年九月、当時の長岡市長であつた小林孝平は、当時の建設大臣から本件河川敷の公共利用について田中の同意を得て欲しいと依頼され、同月二五日、本件河川敷を二分して、その半分を長岡市が譲受け、残りの半分を田中が公共用地として利用するという案を作成し、田中邸へ赴き右案を田中に示したところ、田中から拒否された。そこで、市長は翌二六日再度田中邸へ赴き、同所で、田中及び被告の代表取締役入内島と会談し、本件河川敷の半分を長岡市が譲受ける旨の合意をした。

(八) 右事実に基づいて検討する。

被告は、企業の営業活動の本拠となる独自の営業所もなく、活動を担う専属の従業員もおらず、また企業の活動も、本件河川敷地の買収が主であり、他には殆んど活動を行つていない。従つて、企業としての実体は乏しいと言わざるを得ない。

しかし、被告は、その資本金が、設立当初には一、二五〇万円であつたが、逐次増資されて昭和四九年二月には一〇億円に達し、また田中の関連企業とは言え、新潟交通株式会社、日本電建なども株主となつていること、本件河川敷地は、現在千秋が原工業株式会社の所有になつているが、同社は被告の全額出資の子会社であり、被告は同社の株式を有するなど資産もあることなどの事情もあり、被告が社会的に法人格を有する企業であることは否定できない。

次いで、被告と田中との関係について考えるに、田中は、被告の株式を所有したことはなく、被告の設立及び増資に関与したと認めるに足りる証拠もない。

被告の株主が、田中の関係者、関連会社であること、田中事務所の事務員が被告の業務をも扱つていたこと、更には、本件河川敷地の半分を長岡市に譲渡するに際して、田中の意見が重要な役割を果したと考えられることなどから、田中が被告に対し、実質的に強い影響力を有していたことは窺える。

しかし、被告は、前述のとおり、社会的に法人格を有する企業体として存在しており、右事実から直ちに被告が田中と一体であるとは言えず、また田中が被告を実質的に支配していると断定することも難しい。

2  (本件河川敷売却に至る経緯)

<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

(一) 新潟県長岡市は信濃川に東西を二分され、かつては国道八号線の長生橋とこれから約四キロメートル下流にある県道長岡・与板線の蔵王橋の二橋で結ばれているだけであつた。この二橋にはさまれた信濃川左岸に本件河川敷が存在している。この本件河川敷付近の信濃川の川幅は約一、六〇〇メートルもあり、極端に湾曲した形となつていた。

(二) 信濃川左岸は現在上川西地区となつているが、昭和二九年長岡市に合併されるまでは古志郡上川西村と呼ばれ、三ツ郷屋、小沢、古正寺、寺島、蓮潟、宮関、下柳、荻野、藤沢の各部落から構成されていた。右各部落の農民らは本件河川敷内の畑を耕作し、野菜類を収穫していたが、三年に一度は大洪水に見舞われ、また恙虫が発生して死傷者を出すなど悪条件と闘いながら右土地を耕作してきた。

上川西地区農民は、昭和六年ころから湾曲した堤防のところを送り出して堤内地とし、大洪水等の自然の脅威から耕作地を守ることを願うとともに、旧長岡市への往来を便利にするために長生橋と蔵王橋の中間に橋を架けてもらうことも要望し、これらの運動を進めていつた。しかし、この運動には本件河川敷周辺のみならず、他町村を含む広範囲にわたる農民も参加していたため運動自体積極的でなかつた。

(三) 戦後、昭和二四年ころ、上川西村に耕地整理事業が開始され、この事業が進むにつれ、関係農民の間において、堤防を送り出し、河川敷内の土地の有効利用、架橋の実現という気運が盛り上つてきた。これをきつかけに、上川西村の村長をしていた寺島部落の丸山九郎が先頭に立ち、超党派で堤防送り出しの運動をすべく、本件河川敷沿いの最も利害関係のある上川西地区の有力者らに呼びかけをし、これに賛同した寺島部落の星野九一郎、蓮潟部落の大井栄三郎、松木明正、南藤太郎が発起人となり、昭和三〇年ころ、堤防の送り出し、架橋の実現とともに農家の二男、三男対策を考えて送り出し後の土地を開墾・開発して工場を作り、その工場に二男、三男を勤めさせることなどを目的として「信濃川堤防送り出し期成同盟会」が発足した。

(四) この期成同盟会の発起人らは、それぞれが属する組織を通じて関係各方面へ堤防送り出し等の陳情を繰り返し行つたがいずれも実現は困難視されていた。折りも昭和三三年春地元選出で郵政大臣に就任した田中が長岡入りすることとなり、期成同盟会の発起人らは、田中に堤防送り出しと架橋の陳情をする機会を得たが、田中から実現は困難である旨言われた。しかし、その後も田中或いは地元の長岡鉄道株式会社の専務で田中への取次ぎの窓口であつた関藤栄を通じ、堤防送り出し、架橋の実現とともに送り出し後の堤内地となる河川敷に、土地の開墾・開発をする会社か地元の発展に役立つ企業を誘致して欲しいとの陳情を繰り返した。

(五) 右発起人らは右陳情を繰り返すとともに、堤防の送り出し、架橋の実現等を効果的にするために前記関係各部落に部落長らを通じ、陳情の趣旨を説明させ、関係農民の協力を求める運動を進めた。そして、昭和三六年に、右運動をより強力に推進するため、各部落から二、三名の主立衆を選び、この者達により、期成同盟会の機関としての堤防送り出し委員会が結成され、その委員長に大井栄三郎が就任し、この委員会では、堤防送り出しと架橋の他、送り出し後の堤内地となる本件河川敷の利用方法についても検討された。

(六) 委員会は、土地利用方法について、二、三男対策という当初の目的もあつて、農民が土地を出し合い、出資して工場を建設し、或いは、工場を誘致することを検討し、委員を通じて各部落における農民の意向を徴したところ、工場建設の案は、農民らに金がなく、出資などは到底無理であるとの理由で賛成が得られず、工場誘致案も委員らが長岡市の有力者に打診したものの、結局は無理であるということから、駄目になり、また全体で開発して共同利用をしようという案も出たが、それも代表者の信用、責任問題をどうするかということで話しがまとまらず、各部落内で相談を続けているうちに、金が欲しいから高く売却しようという声があがり、賛同者も多くなり、結局、売却の方向へ傾いていつた。

(七) 右のように、委員会において、本件河川敷を売却する方向へ傾けさせたのには、次のような理由もあつた。

昭和三三年に長生橋西詰の北側、小沢、古正寺部落に長岡市の工場誘致第一号である日産化学工業株式会社が天然ガスを利用して、肥料等を生産するため、工場進出を決定し、昭和三四年までに約二三万平方メートルを買収し、同年には工場建設が着工され、昭和三六年には操業開始となつた。そして、右土地を売却した農民らには多額の現金が入り、また工場に雇われる者も多く、付近は発展していつた。これらの状況を本件河川敷の農民らは羨望の目でみていた。

また、長岡市の農村地帯においても、農業の機械化が進み、昭和三五年ころから農民らは耕運機等の機具を購入する資金が欲しいとの気運も強くなつてきた。

このようなことから、本件河川敷の農民らは本件河川敷を売却したいと考えるようになり、全体としての雰囲気もその方向へ変化していき、委員会も丸山ら五人の発起人を中心として売却する土地の範囲や値段の検討に入つていつた。

(八) 売却の対象となる河川敷の範囲については、委員会で検討を重ねた結果、新堤防が送り出される場合を想定して、それが送り出されるとしたならば、右岸とほぼ平行に送り出されるであろうと考え、さらに長生橋と蔵王橋の長さも参考にして、右岸から九〇〇メートルの地点辺りを相当であると判断し、また部落会等を通じて河川敷地に権利を有する農民の意見も聞き、昭和三七年初めころ、関係各農民の承認をもえて、売却地を旧堤と右岸から九〇〇メートルの線で囲まれた範囲とすることに一応決定した。

売却価格については、委員会で二度売ることはできないので、高値で売却するとの方針のもとに種々検討した。委員会で価格を決定する前に当時の長岡市長から公園を作りたいということで、反当一万五、〇〇〇円での売却の話しや、地元不動産業者から反当三万円で売却して欲しいとの話しもあつたが、委員会の前記方針からして安価であつたため拒絶した。

当時信濃川上流で本件河川敷の近くの釜ケ島地区においてすでに築堤工事が行なわれ、本件河川敷における堤防送り出しも近い将来実現すると考えられていた。委員会は、堤防送り出しが実現すれば、本件河川敷も堤内地となるのであるから、旧堤防の内外で差をつける必要はないと考え、本件河川敷とは旧堤で隣り合つている元専売公社付近の堤内の田が反当一七、八万円であつたことや、そこから少し離れた雨池地区の県道端が反当六、七万円であつたことを参考にして、次のような案を作成した。即ち、民地のうち、耕作地は反当一五万円、不毛地は反当七万五、〇〇〇円、九条地のうち、耕作地は反当七万五、〇〇〇円、不毛地は反当三万円、河川敷は反当一万五、〇〇〇円と決定した。そして右の検討結果を各町内の委員らがそれぞれの町内に持ち帰り、常会等で報告し、昭和三六年秋ころには関係各農民らも右の売却価格を承認した。

(九) 委員らは、右価格での売却斡旋を関藤栄を通じて田中に陳情し、関は委員らの陳情を田中に伝えた。そして、委員らは、本件河川敷売買の実現を図るためには、関係各農民の一致した協力が必要であると考え、委員長大井栄三郎が発案者となつて、「関係各農民は前記価格で信濃川河川敷地を売却することに承諾した。」旨の承諾書を作成し、これに関係各農民から署名・押印をもらうこととした。委員らは関係各部落で集会を開き農民らに右趣旨を説明して了解を得、右承諾書に署名・押印をもらつた。そして、右作業が終つた昭和三七年三月二四日、委員の松木明正が承諾書を持参して関藤栄宅へ赴き、承諾書作成の趣旨を述べて、田中に承諾書の趣旨を理解してもらつて本件河川敷売買の斡旋をさらに強力に進めてもらうよう陳情して欲しい旨伝え、承諾書を関に渡した。

関は、翌日承諾書を持つて上京し、田中に承諾書を渡して、農民側の要望を伝えた。そして、関は数日後、大井栄三郎らに対して、田中が「これだけまとまれば何とか面倒をみなければならない。」旨の意向を示したと伝えた。

しかし、その後、田中から何らの連絡もなく、昭和三八年六月ころに至つて被告が買受ける旨の回答が、関から農民らに伝えられた。

(一〇) 被告が本件河川敷を買受けることを決定してから、被告側は契約締結事務を測量士の資格を持つ風祭康彦にあたらせることにし、他方農民側は清水善四郎を右事務にあたらせることにした。

そして、まず、本件河川敷の更正図の写しを作成し、それに右岸から九〇〇メートルの所に線を入れ、売買予定対象地の地番を調査して、それらを佐藤法律事務所に渡して、同事務所で登記簿謄本、戸籍謄本等に基づいて本件河川敷の権利関係の確認作業を行つてもらつた。

(一一) そして、昭和三八年九月に至り、農民側の希望もあつて、右確認作業によつて権利者が判明した土地から売買契約を進めることになつたが、農民の代表者から登記簿上の面積より実面積の方が広い所があるので、その場所は実面積で売買代金を算出して欲しいとの要求があつたので、被告は検討の結果、農民の代表者が増歩を認めた箇所について実面積で売買代金を決めることを承諾した。

なお、売買契約に先立ち、風祭は、佐藤法律事務所に本件河川敷の地権者、地目、面積等権利関係を明らかにする一覧表の作成を依頼し、それに売買代金を記入したうえで清水に右一覧表を渡し、同人が該当する権利者に右一覧表を見せ、権利者から事前に承認を得ている。

(一二) 昭和三八年九月から農民らとの契約締結に入つたが、その契約は、各部落別に関係者が公民館に集まり、町内会長、農民の代表者が立会い、各人毎に佐藤法律事務所で作成した契約書に署名する方法でなされ、まず民有地のうち、不毛地から契約が締結された。そして、同年一二月ころから民有地のうち農地につき売買契約がなされ、昭和三九年五月ころから九条地につき停止条件付売買契約(なお、不毛地のうち河川敷の所は当初反当一万五、〇〇〇円であつたが、反当三万円とすることに合意)がなされ、九条地の耕作者との間では反当四万五、〇〇〇円で離作契約をなした。

(一三) ところが、昭和三九年七月ころ、前記九〇〇メートルの線から右岸側(九〇〇メートルの地点に法線を引いた場合に、いわゆる堤外地となる地域)を耕作している者から、仮に新堤が右線のところに出来ると川幅が狭くなり、その分だけ自分らが耕作している土地が水を被る率も多くなり、右線から左岸側の者は利益を得ているのに、右岸側の者は金も貰えず、損をするので、是非耕作補償料を支払つて欲しいと言われ、種々検討した結果、坪五〇円で補償料を支払うこととした。

(一四) そして、昭和三九年五月ころ、及び同年九月五日原告大井及び亡清四郎と被告の間で抗弁記載の各契約が締結され、同年七月ころ前記(一三)記載のいわゆる新堤外耕作補償料支払契約が締結された。

(一五) 原告大井及び亡清四郎と被告が本件売買契約を締結した翌年の昭和四〇年九月から堤防送り出し工事が始まつた。右新堤は当初農民らが予定した右岸から九〇〇メートルではなく、一、一〇〇メートルのところに築堤されることとなり、昭和四五年一二月に新堤防が完成した。

また、昭和四二年六月国道八号線長岡バイパスルートの発表があり、長岡大橋の建設も決定され、長岡大橋は昭和四五年完成した。

(一六) 建設省は、昭和五二年一一月一日、本件河川敷につき廃川敷処分の告示をし、九条地については河川法施行法一八条、旧河川法第四四条但書の規定に基づき、昭和五三年六月一日旧地主に下付され、同月二三日引渡がなされた。

(一七) 昭和五四年一二月二一日本件河川敷の北半分が被告から長岡市に譲渡され、昭和五五年一月二一日所有権移転登記がなされた。

(一八) 以上の事実を認めることができ、右認定に反する証人笠井伊忠次の供述部分及び甲第一〇号証は証人関藤栄及び同松木明正の各証言に照らしにわかに信用できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

右事実によれば、本件河川敷の堤防送り出し、架橋ひいては本件河川敷の開発は農民らの長年の夢であつたこと、堤防送り出し工事の着工が昭和四〇年になされることは農民らにとつて予想できなかつたとしても、近い将来築堤が実現するであろうことは農民らも予想していたこと、本件河川敷の開発から売却へと変つていつたのも農民らの意向によるものであり、売却価格も大井栄三郎ら堤防送り出し委員会の幹部らを中心として、農民らの自主的判断により決定されたことになる。

原告らは、田中が本件河川敷の売却の方向へ誘導した旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

3  (政治家としての地位利用)

(一) 原告らは、田中が政治的地位を利用して築堤計画の存在を知つて、昭和三六年に本件河川敷の買収を企図し、農民らを売却の方向へ誘導し、大蔵大臣として昭和四〇年に築堤が開始されること、それに伴なつて架橋工事も始まること等を知りながら、右事実を秘して自己のダミー会社である被告に本件河川敷を買収させたと主張するので、これにつき判断する。

(二)  そこでまず、政治家の地位利用に基づく法律行為が公序良俗に反するか否かであるが政治家が、その職務上知り得た情報を利用して、自己又は第三者の利益を図る行為が、私法上の契約関係として生じた場合には、その契約は公序良俗に反する無効な契約と解するのが相当である。

即ち、憲法は前文で「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは、人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。」と宣明して、国民主権の原理、国民代表制を採用し、さらにそれらを具現するものとして、憲法一五条は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。……」と規定している。

公務員(一般職、特別職を問わない)は、もともと主権者たる国民より発し国民に帰属すべき国家権力の行使を国民から信託されたにすぎないという地位に立つとともに、その権限と責務を常に国民全体の奉仕者として、民主的かつ能率的に遂行すべく全力をあげて専念しなければならないという地位に置かれている。

このように、憲法は、すべての公務員に対し、全体の奉仕者たるべく、国民の一部、一階層、一党派の私的利益に偏ることなく、国民全体の福祉に合致するように公務を遂行することを要求している。

そして、憲法上の右要求を受けて、国会法は、国会議員が政治倫理綱領及び行為規範を遵守する義務があることを定め、また、国家公務員法は国家公務員の服務の根本基準を定め、守秘義務や営利企業からの隔絶の義務等を規定している。国家公務員法は、特別職の国家公務員に適用されないが、同法が公務員に対し要求している公務員としての公正性、廉潔性等は、特別職の公務員にも推し及ぼさるべきである。

従つて、国会議員、国務大臣は、国民の信頼に応えるために公務の適正な処理をなすべく、その政治上の地位から特別に知り得た情報を他に漏らすことがあつてはならず、ましてや、その情報を利用して、自己又は第三者の利益を図ることがあつてはならない。国会議員、或いは国務大臣が右義務に違反して、自己又は第三者の利益を図つた場合には、政治上の責任が生ずることは勿論、それが私法上の法律行為として生じた場合には、政治ないし行政の制度の基本的要請に反するものとして不法性を帯び、当該法律行為は公の秩序に反する無効な行為と言うべきである。

(三)  そして、右公序良俗違反の法律行為は、権利障害事実として、その無効を主張する者に公序良俗違反を構成する具体的事実を証明する責任があると解すべきであり、このことは、本件のような場合においても同様で、特に証明責任分配の一般原則を排斥しなければならない理由はない。

(四) まず行政部内において、築堤計画等がどのように進められ、検討されていたかについて判断するに、<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 本件河川敷周辺の築堤計画

(ア) 本件河川敷周辺のいわゆる蓮瀉地区における堤防送り出し工事、即ち築堤計画については、昭和二八年度以降信濃川改修総体計画(以下「昭和二八年度総体計画」という。)において築堤が計画され、霞堤として計上されていた。右計画において蓮潟地区の築堤が計画されたのは、建設省の説明によれば、過去に低水路が蓮潟地区にあつたため、すぐ下流の蔵王橋右岸付近に水害を起こすおそれがあり、この偏流を整正する必要があつたこと、また連続堤とせずに霞堤としたのは、支川である八ケ川等の処理もあり、徐々に延長しながら河状の変化を検討する必要があつたからであろうとされている。昭和二八年度総体計画において、蓮潟地区の築堤方法は、本件河川敷の上流にあたる釜ケ島地区の築堤に準じて行なうとされている。即ち、釜ケ島地区霞堤部分の法線延長の実施が河状の変化を把握検討しながら徐々に行うものとするとされていることと同様に懸案事項とされていた。

(イ) 昭和二八年度以降は、北陸地方建設局内部及び建設本省との間で懸案事項である築堤方式について数次にわたつて検討が行われた。

昭和三五年一一月、北陸地方建設局と建設本省との間で行われた検討会では、築堤計画は現計画どおりとして計上し、今後も検討事項とすることとされた。

昭和三七年二月、北陸地方建設局と長岡工事事務所との間で総体計画改定のための打合せが行われ、その結果に基づき作成された北陸地方建設局原案では、霞堤とすることは意味がないので、現計画法線に沿つて延長し、締切ることとする、即ち、霞堤ではなく連続堤とするということであつた。しかし北陸地方建設局は、右原案に基づき、建設本省と打合せを行つたが、連続堤案は保留となり、霞堤のままで計上されることとなつた。なお、蓮潟地区についても釜ケ島地区計画に準じて検討するとされている。釜ケ島地区の霞堤は、昭和三六年六月締切りが決定された。

(ウ) 右検討結果に基づき、昭和三八年度以降信濃川上流総体計画(以下「昭和三八年度総体計画」という。)が出され、同計画でも蓮潟地区の築堤計画は霞堤として計上されることになつたが、遊水池とすることの経済効果等を調査し、連続堤とする必要があるかどうか検討するとされ、懸案事項として残されていた。

(エ) 蓮潟地区の築堤計画は、昭和四〇年度以降直轄河川改修新五か年計画(以下「昭和四〇年度五か年計画」という。)においても霞堤として計上され、昭和四〇年度から五年以内に完成することとされ、同年九月に着工となり、昭和四一年一〇月二〇日の国会において当時の建設大臣も蓮潟地区の築堤方法が霞堤である旨の答弁をしている。

(オ) しかしながら、昭和四三年七月北陸地方建設局と建設本省との協議で、蓮潟地区の築堤方式について、昭和三八年度総体計画の箇所別変更により、霞堤から連続堤に計画変更された。右のように箇所別変更が行われた理由は明らかではないが、施工費において四、六八〇万円の経費節減となるとともに、法線的にも流過能力に支障を及ぼさないからとされ、また建設省の説明によれば、連続堤とすることによつて、長岡バイパスの工事費の節減にもなるからであろうとされている。

そして、箇所別変更にともない、第三次治水事業五か年計画直轄河川改修事業計画調書に締切りに必要な四三五メートルの築堤計画が計上され、昭和四三年度から五年以内に完成することとされた。

(2) 長岡バイパス建設工事と長岡大橋の架橋

長生橋及び国道八号線と一七号線の交差点付近の交通渋滞を緩和する目的で計画された長岡バイパスは、昭和三八年度及び昭和三九年度に計画線調査が行われ、昭和四一年度に重要構造物(橋梁)調査が行われ、その結果に基づいて現在のルートが選定された。蓮潟地区に架橋された長岡大橋は、長生橋及びその下流約四キロメートルの所にある蔵王橋のほぼ中間にあたり、かつ都市計画道路につながるものであり、市内交通の混雑緩和にも役立つ位置であるとの理由で架橋地点が決定された。

(3) 河川法改正の経緯

旧河川法は、明治二九年に制定され、その後部分的改正が行われ、またそれぞれの時代の要請に基づいて勅令、政令、特別法等の制定により実態に即応した河川行政を行つてきた。しかし、社会経済の進展と法律制度の変革により、従来の措置では十分でなく、実情に即しない面が種々現われ、各方面から旧河川法の検討の必要性が指摘され、根本的な改正が要求されるに至つた。

河川法改正は大正の中期ころからその必要性が認められてきたが、政府部内の意見が一致せず、戦後における新憲法の制定と民主的行政の確立の機運に伴い、河川法改正問題が再び取り上げられたが、これも関係各省の意見が一致せず、国会提案までには至らなかつた。しかし、昭和三七年九月の衆議院建設委員会において、当時の建設大臣の答弁を契機として、新河川法案が立案され、関係各省庁との意見調整が行われることとなり、永年の懸案であつた河川法改正が国会に提案されることとなつた。

改正の提案理由は、第一に現行憲法の制定に伴い、国の行政制度及び地方制度に大幅な変革が加えられたため、旧憲法に基づく従来の制度を前提とした河川管理制度について再検討を加え、整備を図る必要があること、第二に各水系における沿岸流域の開発に伴つて治水事業を計画的に推進するための体制の整備を図る必要があり、国土の保全と水資源の総合的な利用と開発を図るために、一つの河川をそれぞれの知事の管理に分断する河川管理制度を再検討する必要があること、第三に利水関係規定の整備を図る必要があること、第四にダムの設備又は操作に起因する災害の発生防止、ダム防災に関する規定の整備を図る必要があること、であつた。

そして、右提案理由の趣旨に沿つて、昭和三九年六月二五日新河川法が成立し、昭和四〇年四月一日から施行されることとなつた。

(五)  以上のことを前提として、原告らの主張をそれぞれ検討するに、まず原告らは、(ア)田中と被告は一体関係にある、(イ)あるいは田中が被告を実質的に支配していることを理由として、田中が政治家としての地位を利用して知り得た築堤計画等の情報をもとに締結させた本件各契約は無効であると主張する。しかし田中と被告が一体関係にあることあるいは田中が被告を実質的に支配していることは認めることができない(前記1で認定した。)のであるから、原告らの右主張は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

(六) 次に原告らは、田中が政治家としての地位を利用して知り得た情報を被告会社代表取締役入内島金一らに提供して被告に暴利を得させようとしたとの点について判断する。

(1) 被告会社代表取締役入内島金一らにおいて、近い将来築堤が開始されることを想定して本件各契約を締結したことは、被告も自ら認めるところである。

(2)  ところで原告らは、田中が、築堤が昭和四〇年に着工されることを知つていたと主張する。

本件各契約は原告大井及び亡清四郎を含め約三〇〇名に及ぶ農民らとの間で交わされた本件河川敷売買契約の一連の契約として締結されたものであるところ、右契約は昭和三八年六月ころ、実質的に合意が成立し、昭和三八年九月から契約締結が開始されたことは前記2で認定したところであるから、昭和三八年九月までに田中が築堤開始の時期を知り、その情報を被告に提供したかについて検討する。

まず田中が昭和三五年一一月から昭和三六年七月まで自民党水資源開発特別委員長、同年同月から昭和三七年七月まで自民党政調会長、同年同月から昭和四〇年六月まで大蔵大臣の地位にあつたことは争いがない。そして、田中は、昭和四〇年に新堤防工事が着工された当時大蔵大臣の地位にあつたのであるから、築堤工事の予算案が建設大臣から大蔵大臣へ提出された昭和三九年秋ころには、本件河川敷の築堤が昭和四〇年に霞堤として着工される予定であることを知つていたことは認めることができ、また、それ以前においても行政部内で築堤計画や河川法改正等の検討がなされていたのであるから、当時の田中の職務上の地位からして、築堤計画の存在を知つていたものと考えられる。しかし田中が右計画の具体的内容をどの程度知つていたかは明らかでなく、本件河川敷についての一連の契約が開始された昭和三八年九月以前において、田中が昭和四〇年の築堤着工を知つていたと認定することは困難である。

従つて被告会社代表取締役入内島金一らが、昭和四〇年の築堤着工を知つて、本件河川敷の買収を決定したと認めることもできないから、原告らの右主張も理由がない。

4  (暴利行為について)

原告らは、田中が政治的地位を利用して知り得た情報をもとに、何も知らない原告大井及び亡清四郎らから原告大井所有地及び同長谷川所有地を買受け、桁はずれの暴利を取得し、或いは右情報を被告に提供して暴利を得させた旨主張するのでこの点につき判断する。

(一)  暴利行為の有無は契約締結時を基準として判断すべきであつて、これは停止条件付売買契約においても同様で、条件付売買ということから判断時期を異にすべきではない。

(二) そこで、本件売買契約締結時である昭和三九年当時における原告大井所有地及び同長谷川所有地の価格について検討する。

右の点に関し、原告らは鐘ケ江晴夫作成の、被告は横須賀博作成の各鑑定書を提出するので、まず右両鑑定書を検討することとする。

(1) 鐘ケ江晴夫鑑定(以下「鐘ケ江鑑定」という。)について

(イ) 鐘ケ江鑑定は、原告大井所有地のうち、別紙第一物件目録(四)ないし(七)の各土地(以下、単に(四)、(五)、(六)、(七)の土地という。)及び原告長谷川所有地について、昭和五九年一二月末日現在、昭和五二年一一月現在、昭和四六年一月現在、昭和三九年七月現在の土地正常価格の鑑定を行つている。

(ロ) 鐘ケ江鑑定は、右各土地の売買が昭和三九年ころ、付近一帯の土地と共に、農地法第五条による転用許可を停止条件として締結されたものであるから、右売買は耕作を目的とするものではなく、宅地への転用を目的、条件として行われたもので、従つて、右各土地の最有効使用は公共用宅地と判断している。それ故、右各土地の評価も、右各土地を宅地(公共用かつ大規模の宅地)として使用収益することを前提条件としている。

(ハ) そして、まず、昭和五九年一二月現在の右各土地の価格を査定した。その試算方法は、(ⅰ)標準宅地価格の算定につき、昭和五九年一月一日の長岡市蓮潟五―六―一七(五―六―二四)の公示価格一平方メートル当り五万九、〇〇〇円を選定し、これに同年一二月末の時点修正を施し、一平方メートル当り六万一、一二二円の比準価格を求め、これを五つの取引事例と比較検討し、公示価格を市場の平均的価格と認め、(ⅱ)次に、標準宅地造成工事費の算定につき、昭和五三年一月一日現在の長岡地域開発公社施行の実額(地積三、〇〇〇平方メートル、分譲地積二、四五〇平方メートル)を求め、それに民間施行の場合の諸経費(利益)を見込み、一平方メートル当り九、四三四円と査定し、それに卸売物価指数を乗じて、昭和五九年一二月末現在の工事費を一平方メートル当り一万一、〇三二円と査定した。(ⅲ)そして、標準宅地価格から造成工事費を控除して分譲地原価を求め、標準素地価格を一平方メートル当り四万九〇六円(分譲地原価に分譲地積を乗じ、素地地積で除したもの)と査定し、この価格をもつて昭和五九年一二月末現在の本件河川敷付近の標準素地価格とした。

(ニ) そして、右価格を基に、(四)、(五)、(六)、(七)の各土地及び原告長谷川所有地の地域開差を勘案し、(四)の土地を一平方メートル当り四万九、〇八七円(総額49,087円×204m2=10,013,748円)、(五)及び(六)の土地(併合して一画となるから一個の土地と扱う)を一平方メートル当り四万九、〇八七円(総額49,087円×(155m2+145m2)=14,726,100円)、(七)の土地を一平方メートル当り四万九〇六円(総額40,906円×932m2=38,124,392円)、原告長谷川所有地を一平方メートル当り四万九〇六円(総額40,906円×122m2=4,990,532円)と査定した。

(ホ) 昭和三九年七月現在の(四)ないし(七)及び原告長谷川所有地の価格については、昭和五九年一二月末の価格を基準に、昭和三九年度の地価指数、卸売物価指数による修正を行い、昭和三九年七月現在の(四)の土地を三六万四、二六二円(一平方メートル当り一、七八五円)、(五)及び(六)の土地を五三万五、六八〇円(一平方メートル当り一、七八五円)、(七)の土地を一三八万六、八一六円(一平方メートル当り一、四八八円)、原告長谷川所有地を一八万一、五三六円(一平方メートル当り一、四八八円)と査定した。

(2) 横須賀博鑑定(以下「横須賀鑑定」という。)について

(イ) 横須賀鑑定は、原告大井所有地(なお、同人所有地につき、(三)、(四)、(五)、(六)、(七)の土地ともいう。)及び同長谷川所有地について、昭和三九年九月五日及び昭和五九年一二月三一日現在の土地評価を行つている。

そして、右各土地が農地法第五条の転用許可を停止条件とする売買であつたことから、このことを前提として鑑定している。

(ロ) そして、昭和三九年九月五日時点における右各土地の正常価格を求めるにあたり、一般的要因である社会的、経済的及び行政的要因を検討し、本件河川敷の西側一帯(旧堤内地)の地域状況は、徐々に宅地化が進んでいたものの、依然農業依存度が高い地域であり、本件河川敷内は、依然洪水の危険にさらされる河川敷内の畑地地域と判断し、昭和三九年九月五日時点における原告ら各所有地を、農地転用を前提とした売買であつても、最有効使用は畑地としか考えられず、地価は耕作目的の農地価格とほぼ等しかつたと推定した。

(ハ) そして、原告ら各所有地の評価にあたり、旧堤内地に想定標準地を設定し、取引事例比較法により想定標準地の価格を求め、原告ら各土地が河川敷地内に存することによる修正を行い、(三)の土地を一平方メートル当り一〇八円(総額108円×214m2≒23,100円(百円未満四捨五入、以下同様)、(四)の土地を一平方メートル当り六七五円(但し旧堤内地として設定してある。総額675円×204m2=137,700円)、(五)の土地を一平方メートル当り一三五円(総額135円×155m2≒20,900円)、(六)の土地を一平方メートル当り一三五円(総額135円×145m2≒19,600円)、(七)の土地を一平方メートル当り一三五円(総額135円×932m2≒125,800円)、原告長谷川所有地を一平方メートル当り一三五円(総額135円×122m2≒16,500円)と査定した。

なお、昭和五九年一二月三一日時点における原告ら各所有地の価格については、開発可能な宅地見込地と判断し、(三)の土地を一平方メートル当り一万六、九〇〇円(総額16,900円×214m2≒3,617,000円)なお千円未満四捨五入、以下同様)、(五)の土地を一平方メートル当り一万七、四〇〇円(総額17,400円×155m2=2,697,000円)、(六)の土地を一平方メートル当り一万七、四〇〇円(総額17,400円×145m2=2,523,000円)、(七)の土地を一平方メートル当り一万七、四〇〇円(総額17,400円×932m2≒16,217,000円)、原告長谷川所有地を一平方メートル当り一万七、四〇〇円(総額17,400円×122m2≒2,123,000円)とそれぞれ査定した。(四)の土地については、最有効使用を隣地併合後の一般住宅敷地と判断し、前記評価方法を用い(想定標準地も宅地であることを想定)、一平方メートル当り三万二〇〇円(総額30,200円×204m2≒6,161,000円)と査定した。

(三) 右のとおり、両鑑定は、いずれも農地転用の取引であつたことを前提にしているが、評価において著しい格差を示している。昭和三九年当時の原告ら各所有地の評価額を比較してみると、鐘ケ江鑑定では横須賀鑑定の約一一から一三倍の高い評価となつている。なお、昭和五九年当時においては、鐘ケ江鑑定が約2.3から2.8倍横須賀鑑定より高い評価にとどまる。

(四) そこで、原告ら各所有地の昭和三九年時点における適正価格を右各鑑定を参考に検討する。

土地の価格は原則として正常価格(あるがままの土地の姿を客観的交換価値として把握すること)であることが必要であるが、その際、不動産の価格を形成する一般的要因である社会的、経済的及び行政的要因を究明し、土地の最有効使用の原則等を考慮して適正な価格を算出することが要請されている。そして、不動産の価格が、その不動産の最有効使用(即ち、不動産の取引当時、良識と通常の使用能力を持つている人が、一定の期間にその不動産から最大の純収益をあげうるような使用方法で、その判断にあたつては、その地域の発展性の要素や土地の需要との関係を考慮し、遠い将来の主観的な予想や投機的な利用は排除し、また規制等の存在があれば、規制の範囲内で許される最有効使用を求めることをいう。)を前提として把握される価格を基準に形成されるものであるから、原告ら各所有地の最有効使用を検討することが必要となる。

原告ら各所有地の昭和三九年当時の状況は、前記認定のとおり、築堤もなされていない洪水の危険にさらされていた本件河川敷地内に存在し、畑として利用されていたものであり、また、本件河川敷付近の旧堤内地周辺も、証人横須賀博の証言及びこれにより成立を認める乙第四七号証によれば、徐々に宅地化が進んでいたと推定されるが、農業依存度が高く、農村地帯としての特性が高い地域であり、宅地地域へと転換していつたのは昭和四六年頃であつたことが認められ、これらによれば、昭和三九年当時の原告ら各所有地の最有効使用は畑であつたと認めるのが相当である。従つて、原告ら各所有地の評価も右を前提としたものということになる。

確かに、本件売買契約は、本件河川敷地が近い将来築堤により堤内地になることを想定して締結されたことは前記認定のとおりである。しかし契約締結時は、まだ堤外であり、築堤の時期も明らかでなく、旧堤内地もまだ農村地帯であつたのであるから、原告ら各所有地の最有効使用は畑であつたと解すべきである。

原告らは、原告ら各所有地は農地法第五条の許可を条件とするものであるから、右各土地の評価も宅地転用としての宅地価格を前提とすべきであると主張する。しかし、農地法第五条の許可を条件とする取引であつても、全て宅地目的の転用とは限らず対象土地の存在状況によつてそれが直ちに最有効使用も宅地として評価しなければならない訳ではなく、また、前記のように、原告ら各所有地は、将来堤内地になることが予想されていたとはいえ、一般的に利用されている平坦な土地ではなく、河川敷内という特殊な事情下に存在した土地であつたのであるから、これらの事情を考慮することなく、農地法第五条の許可を条件とする取引であるという一事から、最有効使用を宅地であると判断すべきではない。

(五) 右によれば、原告ら各所有地の最有効使用を公共用宅地と判断し、それを前提として右各土地の宅地見込地(素地)の価格を算出した鐘ケ江鑑定には疑問があり、直ちに採用できない。

(六) ところで、原告大井は、同人所有地合計一、六五〇平方メートルを合計二五万円で、亡清四郎は原告長谷川所有地合計一二二平方メートルを一万八、五〇〇円でそれぞれ被告に売渡したが(この点は当事者間に争いがない)、これは一平方メートル当り一五一円となる。

前記のとおり、原告ら各所有地の最有効使用が畑であることから考えると、右各土地の価格も耕作目的の農地価格を反映した水準に相当すると言えるところ、前掲乙第四七号証、証人横須賀の証言によれば、原告ら各所有地付近は新潟県においても農村部に位置し、昭和三九年における農村の耕作目的の農地(畑)価格(平坦地)は、上二〇五円、中一六〇円、下一一四円(いずれも平方メートル当り)であることが認められ、右各土地が、当時まだ河川敷内にあつたことを考慮すると、中程度の農地の価格を超えていたとは考え難く、右各土地の価格は、一平方メートル当り一六〇円から一一四円が相当である。

横須賀鑑定は、当時旧堤外地に存した原告ら各所有地の最有効使用を畑と判断して昭和三九年当時の価格を一平方メートル当り平均一三五円と算出しているが、概ね妥当なものと評価できる。

(七) 以上によれば、本件売買価格が一平方メートル当り一五一円であつたのに対して、原告ら各所有地の評価は、高く見積つても一平方メートル当り一六〇円であるから暴利行為とは認め難く、原告らの主張は理由がない。

三再抗弁事実2(詐欺による取消)について判断する。

被告代理人として本件各契約を担当した風祭康彦らが、契約締結に際して原告大井及び亡清四郎に対し「どうせ三年に一回は水につかる土地ではないか。」「河川敷だから国から寄こせと言われれば返さなければならない土地だ。」等と述べて原告大井及び亡清四郎に対し積極的な欺罔行為をなしたと認めるに足りる証拠はない。

証人小林由布は原告らの主張に沿う供述をしているが、同証人は本件河川敷売買の当事者ではなく、また、本件河川敷の堤防送り出し運動に携つていた者でもなく、本件河川敷売買へ至る経過について詳細な事実を知つている者ではないのであつて、同証人の供述は伝聞又は推測に基づくもので、証人松木明正の証言及び前掲乙第一六号証の一、二に照らし措信できない。

また前記のとおり、田中が本件河川敷の売買契約締結が開始された昭和三八年九月以前に本件蓮潟地区の築堤が昭和四〇年に着工されることを知つていたと認めるに足る証拠はなく、従つて、被告が田中から築堤計画に関する右情報の提供を受けたと認めることもできないから、原告らの詐欺の主張は理由がない。

四再抗弁事実3(錯誤無効)について判断する。

前記のとおり、原告大井及び亡清四郎は本件売買契約締結当時、築堤計画の実施時期等その具体的な内容についてまで知り得なかつたが、本件停止条件付引渡契約においては、廃川敷処分があることを前提とし、本件売買契約においても、価格は旧堤内地を参考に定められているのであつて、近い将来築堤がなされ、廃川敷処分となり得ることは予想していたところであり、本件各契約は、近い将来築堤がなされることを想定して締結されたものである。

新堤防が建設されずに、冠水が続いていく土地として売買されたものと解することは相当でない。

確かに、昭和四〇年九月に築堤が着工されたことは、原告大井らにとつて予想より早かつたとの感を与えたことは否定できない。しかし被告会社代表取締役入内島金一らにおいても、本件河川敷売買契約の開始された昭和三八年九月以前に右着工時期を知っていたと認めるに足りる証拠のないことは前記三のとおりであつて、結局、原告らの錯誤の主張は理由がない。

五再抗弁事実4(国有財産法一六条に反する無効な契約)について判断する。

本件停止条件付土地引渡契約には、その前提として、九条地が廃川敷処分により旧地主に下付された後に、旧地主から被告が右土地を買受けるという契約が存在するが、原告らは右契約は国有財産法一六条に反すると主張する。

しかしながら、第三者(旧地主)と被告間の契約は、九条地である国有地が第三者に下付され、第三者の所有となることを条件としてなされたもので、これは私有地に関する売買であり、国有地に関する売買ではない。さらに、前記のように、田中が自ら直接の当事者、或いは被告というダミー会社を使つて、右契約を締結したと認めるに足りる証拠はなく、また被告の利益を図るために右契約を締結させたと認めるに足りる証拠もない。

以上によれば、再抗弁事実4は理由がない。

六以上の次第で、原告らの本訴請求はいずれも理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官大島哲雄 裁判長裁判官新城雅夫、裁判官太田武聖は転補のため署名・押印できない。裁判官大島哲雄)

別紙第一物件目録

(一) 長岡市古正寺町字見取一、八四二番

雑種地  八〇二平方メートル

(二) 同所一、八四三番

雑種地  八三〇平方メートル

(三) 同市蓮潟町字見取一、三八九番一

畑    二一四平方メートル

(四) 同市宮関一丁目一、六五八番一

田    二〇四平方メートル

(五) 同市蓮潟町字新助二、七〇〇番七

畑    一五五平方メートル

(六) 同所二、七〇〇番九

畑    一四五平方メートル

(七) 同市寺島町字見取二九三番四

畑    九三二平方メートル

別紙第二物件目録

(一) 長岡市寺島町字新助四一八番二

雑種地 一三、九八六平方メートル

実測面積 八畝二六歩(879.33平方メートル)

(二) 同市蓮潟町字見取一、一二四番

畑    一二二平方メートル

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例